自分を、医師を、周りの人を信じる

~長く落ち込むのはしんどいから~(取材日:2024年8月)

話し手:起田コケ子さん

4年ぶりに受けた健診で肺に陰影ありと指摘され、肺がんと診断されました。化学放射線療法で治療をおこない、一度は体重が10kgも減るほどつらい思いをしました。その後何度か転移が判明してその都度治療をおこない、現在は治験に参加して病状は安定。病気とうまく付き合いながら趣味の馬術も続け、前向きに人生を送っています。

起田コケ子さん (55歳) 肺腺がん

4年ぶりに受けた健診で肺がんが見つかる

-肺がんが見つかったきっかけを教えてください。

夫の会社に家族健診の制度があり、長年受けていました。ただ、在宅でやっていたWebサイトデザインなどの仕事が忙しくなり、趣味の馬術も競技会にも参加するほど本格的にやっていたので、時間がなくて健診はしばらくお休みしていました。そうしたとき、親戚に病気が見つかり、夫から「心配だから、今年はどうしても健診を受けてほしい」といわれ、4年ぶりに健診を受けました。そのときのレントゲン検査で「肺に影があるから、すぐに再検査を」といわれました。

-どのようにして肺がんと診断されたのでしょうか。

健診を受けた病院で、翌日にCT検査をおこないました。何が何だかよくわからないまま検査を受け、やはり腫瘍が疑われるからすぐに専門施設に行くようにといわれました。紹介されたがんセンターに行けたのは、それから約2週間後でした。がんセンターでは、肺腺がんのⅢB期(ステージ3)、EGFR遺伝子変異陽性、エクソン19の欠失と診断されました。

-診断されたときのお気持ちを聞かせてください。

CT検査をしてからがんセンターに行くまでの2週間は、毎日が不安で、途方に暮れていました。そして確定診断されたときは、もう目の前が真っ暗でした。経験したことがないほどのショックで、その日は1人で車を運転して受診していたのですが、このまま運転して帰れるのかなと思うほどでした。

-そこから、どのように気持ちを切り替えられ、治療に向かわれましたか。

「自然に」というのが、私の中では一番しっくりくる表現です。自然な受容のプロセスのような感じで、現実を受け入れたといえばよいのかもしれません。不安で暗い気持ちでずっといるのは、しんどいじゃないですか。私は昔から、あまり長く落ち込んでいることができない性分なんです。そうなったのなら仕方がないと自然に思うようになりました。

陽子線治療と抗がん剤治療(化学療法)の併用を選択

-診断後の治療方針は、どのような内容でしたか。

最初の主治医は呼吸器外科の先生でした。原発巣は左肺でⅢB期(ステージ3)ですが、縦隔リンパ節の右側にも転移があり、手術はできないので抗がん剤治療で延命治療になるといわれました。それで、呼吸器内科でみてもらうことになったのですが、思いがけないことに、内科の先生は「放射線治療ができるかもしれない」とおっしゃいました。
実は私はその1年ほど前から、さまざまな分野の貴重な体験記を集めたWebサイトをときどき見ていて、そこである方の「肺がんを発症した父が陽子線治療で軽快した」というストーリーを読んでいました。それを覚えていたので、「放射線だったら、陽子線治療ができませんか」と内科の先生に聞いてみました。そうしたら先生がすぐに、「いいんじゃない?紹介状書くよ!」とおっしゃったんです。

-その後、どうすることになったのでしょうか。

早速、陽子線の設備がある病院を探してセカンドオピニオンを受けるため、すぐに予約が取れた大学病院に行くことになりました。その大学病院では、教授の先生と直々に面談できて、その場で「陽子線、当てられますよ」と即答していただけました。
最終的に、4クール(4ヵ月)の抗がん剤治療に2ヵ月間の陽子線治療を並行しておこなう、化学放射線療法を選択することになりました。

一度は軽快したのに脳MRIで脳転移が判明

-その後の経過を教えてください。

最初の2ヵ月間は、抗がん剤治療と陽子線治療を大学病院でおこない、残りの2クールの抗がん剤治療はがんセンターに戻っておこないました。すべての治療が終わったころには、目に見える腫瘍はない状態だといわれました。そこからは治療はおこなわず、月1回の経過観察となりました。

-経過は順調だったようですね。

ところが、そうではなかったんです。がんセンターでは、経過観察中は半年に1回脳MRI検査をおこなうことになっていました。その検査で、脳に2ヵ所の転移があるといわれ、ガンマ線による放射線治療を受けました。1回の照射で転移巣は消失し、その後はまた経過観察になりました。

抗がん剤治療で体重が減り、馬の鞍(くら)もかつげなくなった

-検査と治療を繰り返す中で、つらいことはありましたか。

採血の繰り返しと抗がん剤治療の点滴で血管がかなり傷み、血液の出が悪くなって必要量をなかなか採れなくなりました。最初は両腕のどこもいい血管だといわれていたのにな、と残念な気持ちになりました。
また、陽子線治療そのものは痛くもかゆくもないのですが、私の場合は照射範囲がとても広かったので時間がかかり、その間ずっと腕を上げていなければならないのは大変で、毎回脂汗が出るほど。我慢できないくらい手がしびれて、中断してもらうこともありました。
抗がん剤治療では食欲がなくなり、体重が10kg減りました。乗馬では、いつも1人で馬の鞍を装着していたのですが、筋力が落ちて鞍を持ち上げられなくなったときはとても悲しかったです。今考えると、そんなに痩せたことは一度もなかったので、ほっそりした身体に合うファッションをもっと楽しめばよかったと少し悔やんでいます。

-2度目の経過観察は順調でしたか。

脳転移が消失した後はしばらく落ち着いていたのですが、画像検査で肺に再発を疑う所見があるといわれました。このときは、小さな病変が両方の肺に点々と散らばっていました。ただ、一つひとつの病変がかなり小さいので、すぐに薬物療法を始めてもその効果を判定しにくいとのことで、主治医の先生は、「もう少し様子をみてから治療をしましょう」とおっしゃいました。そういうものなのかなとは思いましたが、なんだかもやっとした気持ちでした。

-がんがある状態で治療をしないことについて、どう思いましたか?

少し怖く感じました。それで、ちょうどそのころ陽子線治療後の経過をみるために大学病院にも行っていたので、そこの先生にも相談しました。そうすると、「がんの治療にはいろいろあって、少し待つという考え方もありますよ」といわれました。
発病以来、いろいろな情報を得るために、がんについての情報サイトをよく見ており、その中に、非小細胞肺がんの新しい分子標的薬が国内で承認間近にあるという情報がありました。主治医の先生はそのお話はされませんでしたが、それを待っているのかもしれないと勝手に思い、それまで待つのもよしとして、それからさらに1年ほど無治療のまま過ごしました。

-その後の経過はいかがでしたか。

腫瘍は徐々に大きくなっていきまして、観察できる腫瘍が1センチを超え、腫瘍マーカーも基準値を超えました。その頃、待っていた分子標的薬が承認され、ほどなくその治療を受けることができました。その薬のおかげで長らく元気に過ごせたのですが、5年目を迎えるかという頃に薬剤耐性が生じ、肺門のリンパ腺辺りに新たな病変が現れました。
私は、効かなくなった治療薬を続けていても仕方がないと考え、「別の治療(ガイドラインに沿った従来の抗がん剤)に変更したいです」と先生に伝えました。ところがそれには答えずに、「いくつか治験があるはずだから」と2つの病院を候補に、セカンドオピニオンに行ってみてはどうかと勧められました。

治験に参加して1年ほどになるが、病状は安定している

-治験には参加されたのですか。

2つの病院のうち、自宅からのアクセスがよいほうに紹介状を書いていただきました。担当の先生にお会いすると、「治験はいくつかあります」といわれました。まずは気管支鏡検査で遺伝子変異を調べることを勧められ、その結果「MET増幅」があることが判明し、私に合った治験を絞り込むことができました。そのうちの1つの待機リストに入れてもらい、治験に参加させていただいて現在に至ります。

-現在の状態はいかがですか。

治験での治療を始めて、一度は観察できる腫瘍が4分の1ぐらいに縮小しました。ただその後、半年ほど経つと腫瘍マーカーがじわじわと上がり始め、この治療はもう効かなくなってきたのかなと思いました。ただ、腫瘍マーカーの上昇はごく緩やかで、1ヵ月半ごとのCT検査でも腫瘍の大きさに変化はないとのこと。1年経った現在も効果が続いているという判定のようです。

心配させたくないので実母には発病を伝えていない

-がんの発症を周囲の方はご存じですか。

現在一緒に暮らしている主人と主人の母(義母)、それから私の妹夫婦にはまず伝えました。夫側の親戚には義母から伝えてもらいました。
主人は、最初は言葉に詰まっていましたが、冷静を装っているのか大騒ぎはせず、泣いたり怒ったりしないのかなとこちらが心配になるほど落ち着いていました。逆に、それほどショックだったのかもしれません。

-実のお母さんも心配されているのではないですか。

それが、実家の母には話していません。長く離れて暮らしているので、ものすごく悪く考えてしまって、泣き暮らすようになるのではないかと考え、今も黙っています。どこから漏れるかわからないので、妹夫婦の子どもたちにも、実家近くの古い友人たちにも伝えていません。一番困ったのは、抗がん剤治療で10kgも痩せたときです。外見がかなり変わったので、これではとても母に会えない、次に会うときはどうしようと悩みました。

思っていることを言葉にできるようになった

-病気になる前と後とでお気持ちに変化はありますか。

病気になる前は、死というものがなんとなく他人事でした。でも今は、人間はいつ死んでもおかしくないと思うようになりました。私はもともと人と話すことがあまり得意ではなく、人に何かを頼むことも苦手で、自分で抱え込むことが多かったです。しかし病気になってから、力になりたいと思ってくれる人、それも心の底から本当に助けたいと思ってくれる人が私の周りにいることに気がつきました。それで、「そうだったのか、じゃあもっと頼っちゃっていいんだ」とも思うようになり、とてもラクになりました。

人生には何が起こるかわからない

-現在はどのような生活を送っていますか。

もともと、締め切りに追われて、結構プレッシャーがかかる仕事をしていて、それで体調を崩すこともあったので、いったん仕事はやめました。今は長年付き合いのある方から依頼された仕事だけ、アルバイトのような形で受けています。だいたい午前中はのんびりと家事をして、午後から乗馬クラブで馬のトレーニングをします。そして帰宅し、夕飯の支度をするという毎日です。夫は結構気を遣ってくれて、ちょっとアクティブな旅行を段取りしてくれたり、スポーツ観戦に連れて行ってくれたりします。そういうときには、おいしいものを食べて、いっぱい楽しんでいます。世の中で働いている人から見れば、ずいぶんとぐうたらしています。

-面白いイラストと一緒にブログも書かれていますね。

がんと診断されたときに、自分の病気と治療の備忘録として、ブログを書こうと思いました。ただ、一応全世界に発信するのに、すぐに自分の寿命が尽きてしまったら意味がないと思い、5年後に元気だったら書き始めようと決めました。つらい治療も、ブログのネタになる!と思えば頑張ることができました。がんという病は病状も治療の効果も一人一人全く違って、私の場合はこうだった、としか書けませんが、その中でもしっかり調べて正しいことを書こう、科学的で正確な情報を発信しようとは心がけています。

-これからやってみたいことはありますか。

パンデミックや異常気象など、がんに関係なく、だれでもいつどうなるかわからない世の中だとひしひしと感じています。ですから、一瞬一瞬を大切に過ごしたいと考えています。
ひとまず、生前整理や終活に手をつけたいです。
あとはできるだけ長く元気でい続けて、ブログを見てくださる方々の励みになれればと思います。今後はがん体験で得たネタを漫画にして、クスッと笑ったり「あるある!」と共感したりしてもらえたらいいなと思っています。

家族や先生たちには感謝しかありません

-がんと向き合いながら8年以上経った現在の心境はどうですか。

そばにいてくれる家族のありがたみは、日々感じています。また、何人もの先生に出会いましたが、皆さんいつも私の不安や戸惑いの先回りをして、治療の方向性を示され、励ましの言葉もかけてくださいます。私を上手に導いてくれている先生方には感謝しかありません。よい家族と先生たちに恵まれて、本当にありがたいと思っています。

-最後に、がんの患者さんやそのご家族などに一言お願いします。

これから治療を始められる方たちには、先生は治療のいろいろな選択肢を教えてくれますが、決めるのは自分だということを忘れずにいてほしいと思います。
すでに治療中の方たちは、共に生きましょう!治療のつらさは我慢せず主治医に訴えましょう。身体や心のつらさを伝えられる場は、受診している科以外にも色々あります。
それから、私は患者側なので、患者さんをサポートされるご家族など周囲の方たちのお気持ちはあまり理解できていないかもしれませんが、それでも、皆さんは皆さんなりにつらい思いをされているだろうということは十分に想像できます。どうか、ご家族やご友人の皆様もご自分を大切にしていただきたいと思います。