一つひとつ、納得して進む
~子どもの成長を心の支えに~(取材日:2024年7月)
1ヵ月半で3度の手術
-どのような経緯で肺がんと診断されたのでしょうか。
40歳の誕生日の前に、2人目の子どもを妊娠していることがわかりました。1人目の長男が帝王切開による出産だったため、2人目の次男も帝王切開になりました。それで無事に出産したのですが、お腹の痛みがなかなかおさまらず、検査の結果、帝王切開の過程で膀胱が傷ついたことがわかりました。
そこで救急車で他院に運ばれ、膀胱の手術をおこなうことになりました。そのためのいろいろな検査をしたところ、CT検査で肺の左上に陰影があるといわれ、すぐにMRI検査とPET検査をおこない、ⅠB期(ステージ1)の肺がんと診断されました。そのときの主治医には切除すれば高い確率で治るといわれ、左肺上葉の部分切除をおこないました。1ヵ月半で帝王切開から膀胱手術、肺がん手術と立て続けに手術を受けることになり、とても混乱しました。
-その後はいかがだったでしょうか。
肺の部分切除をしたときの胸水の細胞診で、肺がんはⅠB期(ステージ1)ではなく、Ⅳ期(ステージ4)ということがわかりました。執刀した先生は何かの間違いかもしれないとはおっしゃっていたのですが、結局、主治医が外科医から内科医に替わり、入院して2種類の免疫チェックポイント阻害薬と抗がん剤(化学療法)、白金(プラチナ)製剤による併用療法を2回おこないました。退院後は、2種類の免疫チェックポイント阻害薬または単剤の点滴治療を外来通院でおこないました。
-その後の経過はいかがでしたか。
8ヵ月後の術後の検査でさらに深刻な事態になりました。MRI検査とCT検査で脳と左の肺と胸骨に転移があるといわれ、脳の放射線治療と別の薬物治療をおこないました。それにより病状が落ち着いたと思ったころ、今度は脳に浮腫がみられるとのことで、再々発の疑いがあるといわれました。
そこで、別の病院でPET検査をおこなったところ、がんの可能性は低いので、浮腫は放射線治療の副作用かもしれないといわれました。病気の経過が二転三転して、もどかしい状況ですが、現在はCT検査とMRI検査を3ヵ月に1回おこないながら、分子標的薬と抗がん剤の併用療法を続けているところです。
診断されたときは毎日泣いてばかりいた
-肺がんと初めていわれたときはどのようなお気持ちでしたか。
私は、喫煙も飲酒もしないので、肺がんにだけは絶対にならないという変な自信を持っていました。まさか肺がんになるとは思ってもいなかったので、そう診断されたときは言葉を失うほどショックで、その後は毎日泣いていました。しかも、それまで出産以外は一度も入院したことがないくらい病院とは縁のない生活を送っていたのに、1ヵ月半ほどの間に帝王切開、膀胱手術、そして肺の部分切除と3回も手術をおこなったこともあり、自分が置かれている状況をまったく受け入れることができず、これは何かの間違いだとも思いたかったです。
その一方で、長男はまだ2歳、次男は生まれたばかりでしたから、私が死んでしまったらこの子たちをみてあげられなくなる、そうしたらこの子たちはどうなるのだろうと、いたたまれない気持ちにもなりました。
-それでどうされたのでしょうか。
泣いてばかりはいられないので、病気のことを調べ始めました。そこでわかったことは、Ⅳ期(ステージ4)になると完治するのは難しいということでした。主治医の先生の話からも、このままずっと治療を続けなければならないようでした。今の治療はこれ以上腫瘍が大きくならないように、転移しないようにするためなのだと、納得しなければならなかったのです。終わりを見通せずに、ひたすら治療を続けなければならないのはとてもつらいことです。終わりがないといわれてしまうと、どう頑張ればよいのかわからず、ただただ不安な毎日でした。
-つらい毎日が続いていたわけですね。
それは、気持ちの問題だけでなく、抗がん剤治療をおこなった後に、副作用で動けない時間が続くこともつらかったです。自分としては頑張りたい気持ちはあるのですが、身体がまったくついていかず、もどかしい日々でした。
何よりつらかったのは、身体が動かないときに、子どもにいろいろとしてあげられないことです。子どもたちにたくさん我慢させていると思うと、つらくなりました。そうしたことがすべてエンドレスで続くのだと考えると、この先どうしたらよいのか頭が混乱するばかりでした。
子どもも気遣ってくれるようになった
-周囲の人たちはご病気のことをご存じですか。
がんを発症したことは家族も親類もみんな知っています。最初に診断されたときは、両親は泣きながら私の話を聞いていました。しかし、主人はあまり深刻に受け止めていない様子でした。もともとポジティブな人なので、2人で落ち込んでもしょうがないと思っていたのかもしれません。
ただ、Ⅳ期(ステージ4)といわれたときは「死ぬかもしれない」と思ったので、親しくしている友人の2人にだけ話しました。1人はいつもLINEでつながっていましたし、もう1人はお姉さんをがんで失っていたので、私の気持ちをわかってくれると思ったからです。
子どもたちには、診断されたときはまだ2歳と0歳でしたので、何も話しませんでした。
-お子さんとのコミュニケーションで困られることはありますか。
よく鬼ごっこをしようといわれるのですが、走るとしんどいのでとても困ります。男の子なので動きも激しく、なかなか追いつけません。こんな私では子どもたちを安全に守ってあげられないと思うと、もどかしい気持ちでいっぱいになります。
-ご家族の最近のご様子はいかがですか。
現在は治療を始めて3年ほどになるので、両親は「もう大丈夫でしょう」とよくいいます。ちっとも大丈夫ではないのですが、そうもいえないので、それもつらいところです。ただ、両親は高齢にもかかわらず、子どもを見てくれるなど、私がしんどいときはいつも助けてくれるので本当にありがたい存在です。もうこれ以上は望むべきではないといつも思っています。
主人はどこまで真剣に思ってくれているのかわからないところがあって、万が一私が亡くなったときの準備ができているのか少し不安です。ただ、気にはなっていても、死を前提とする話は私としてもする勇気がないので、それも悩みです。いずれにしても、主人も私ができないことを土日にしてくれたり、子どもたちを公園に連れていってくれたりするので、その部分は本当に感謝しています。
-お子さんたちに変化はありますか。
長男は5歳になり、いろいろなことが少しわかるようになってきています。自分の母親が病院から帰ってくるとかなりしんどそうだと感じるようで、ときどきなでなでしてくれたり、肩を叩いてくれたりします。早く元気になってねなどといってくれることもあるので、そういうときは胸が熱くなります。
SNSでつらさを吐き出すことが心の支え
-日々のつらさをどのように乗り越えてこられたのでしょうか。
つらいと訴えると両親は泣き出してしまいますし、主人も暗くなるだけなので、だれにも自分の素直な気持ちを伝えることはできません。そのため孤独感もあったので、自分の居場所を探しました。そんなとき、同じ病気の人のブログを拝見し、こういう方法なら私もつらさを吐き出せるかもしれないと思いました。そこでまず、Twitter(現X)でつぶやくことから始めました。
-今もXを続けられていますが、その理由を教えてください。
それでつらさを乗り越えられているのかどうかはわかりませんが、そのときの気持ちをひとこと書き込むと、少し気持ちが楽になります。そもそも私は、何でもネガティブに考える傾向があるのですが、主人や家族にあまり弱音を吐き続けると、彼らも返答に窮するので、少し関係がぎくしゃくしてしまいます。
しかしXでは、顔を知らない多くの人たちが、私の弱音や無遠慮な発言でも受け入れてくれて、「わかるよ」「大丈夫だよ」「そんなことないよ」とやさしく言葉をかけてくれます。つらくてつらくて、心が折れてしまっているときも、そうした言葉に支えられて何とか立っていられます。ほんとうに助けられています。
-noteも始められていますね。
Xはその時々の思いを何も考えずに吐き出しているのですが、noteでは、病気の経過や治療の内容、それらについての私の考えなどをまとめておこうと思って始めました。それを読み返すことで、自分の考え方の見直しもできますし、書いたときから現在までの気持ちの変化などもわかります。ですから、ほかの患者さんたちの参考になればもちろんうれしいですが、あくまで自分のため、自分の心と身体の記録として書いています。
セカンドオピニオンでがんとの共存を心に決めた
-治療の途中でセカンドオピニオンを受けられましたか。
昨年の10月ごろに受けました。Ⅳ期(ステージ4)と診断された後、当初の治療が効かなくなったのか、脳と左胸骨への転移と左肺の再発が見つかり、遺伝子検査を受けました。その結果をもとに、再発肺がんが対象となる比較的新しい経口の分子標的薬の1つが使えるかもしれないといわれました。それでは、今までの治療は何だったのか、あんなに副作用に苦しんだのにと、疑問に思うようになりました。しかも、その後も結局その薬ではなく、別の2種類の薬物の併用療法になったのです。いったいどういうことなのかを知りたいと思っていたところ、セカンドオピニオンという相談方法があることを知り、受けてみることにしました。
-セカンドオピニオンを受けられていかがでしたか。
私は、わからないまま物事が進められていくのが嫌いなので、治療中もいろいろな検査の目的や方法、抗がん剤の種類、ステージ別の生存期間、医療用語など、頭がおかしくなるくらい調べ尽くしました。それでもわからないことだらけでした。たとえば、遺伝子検査の後に「残念ながら陰性でした」といわれたのですが、陰性のほうが言葉としてよさそうに思い、なぜ残念なのかわかりませんでした。セカンドオピニオンの先生に、そうした疑問をみんなぶつけてみたのですが、とても丁寧に説明してくれて、いろいろ納得できました。
-セカンドオピニオンでよかったことは。
私の場合はもう治らないと先生にはっきりいわれたことです。決してうれしいことではありませんが、心のモヤモヤを晴らしてくれたのは事実なので、感謝しています。今は薬で抑えているだけで、がんがなくなっているわけではないから治ることはない、といわれました。その言葉で、私はがんと共存することを目標にしよう、共存でいいから子どもたちのために元気なお母さんでいようと、心に決めることができました。
-現在の生活パターンを教えてください。
朝起きて子どもたちを保育施設に送り出して、その後はその日できる家事を休み休みするという毎日です。洗濯物を干して少し休んで、夕飯の準備をし、掃除をしてまた少し休んでと、無理をしないようにしています。また、4週間に1度の抗がん剤治療の後は、しばらく動けなくなるので、その前に大物の洗濯など、少し手間がかかることや体力がいることをするようにしています。また、料理を何日分か作り置きし、冷凍できるものは冷凍して、できるだけラクに食事の支度ができるようにもしています。ここしばらくは入院していませんが、いつまた入院するかもしれないので、常にその準備をしておくことも心がけています。
-日々の生活の中で何か楽しみはありますか。
子どもたちの成長を記録することが楽しみです。私は子どもたちの写真をよく撮ります。自分のお気に入りの写真を毎月11枚選び、裏にコメントを書いてアルバムに貼っています。今は、子どもたちの成長の記録をそうやってアルバムにまとめているときが一番幸せです。
-写真以外に、何かしてみたいことはありますか。
子どもたちが18歳になるまでは頑張って元気でいたいと思っていますが、先のことはわかりません。
今の一番の目標は、子どもたちが小学校に入学するときに、一緒にランドセルを買いに行くことです。ランドセルは6年間使ってもらえると思うので。それから、ゆくゆくは自分にもできる仕事をしたいといつも思っています。
自分が納得できるかたちで治療に向き合ってほしい
-がんと診断され、これから治療を始める方たちにアドバイスをお願いします。
まず信頼できる主治医を探してほしいと思います。私は、帝王切開による膀胱損傷の治療のために、私の意志とは関係なく、半ばなし崩し的に転院させられました。しかも、そこでがんと診断されてしまい、何が何だかわからないまま治療を始めました。そのため、後でいろいろな疑問や不安が生じ、がんの治療がより悩ましいものになりました。
ですから、がんと診断されたら、セカンドオピニオンという仕組みもありますから、自分が納得できるまでしっかり考えて、信頼できる主治医と病院を選び、治療を始めてほしいと思います。
-すでに治療を始めておられる方たちにも一言お願いします。
私が気に入っている言葉を2つお伝えしたいと思います。1つは、「私たちは不運であって不幸ではない」という言葉です。もう1つは、「最悪に備えて最善を期待しろ」です。私と同じではなくてもよいので、自分の支えになる言葉を見つけてほしいと思います。私はそれによって救われることが何度もあります。病院での待ち時間などにも、繰り返しそれを自分にいい聞かせています。自分の心に響く言葉を支えにして、しっかり治療と向き合っていただきたいと思います。
-最後に、患者さんをサポートされているご家族など、身近な人たちへメッセージをお願いします。
とにかく、その人に心から寄り添ってあげてください。それから、ポジティブな考えを安易に押しつけず、患者さんのネガティブな言葉や思いでも受け入れてください。
病気になると、ついついネガティブな気持ちになります。でも、それはしかたがないことです。ただ、そうではあっても、私はかわいそうと思われたくはありません。特に子どもたちがかわいそうといわれることが一番つらいです。かわいそうではない、たまたま不運だっただけなのです。そうしたことも含め、患者さんのすべてをしっかり受け止めていただきたいと思います。
2024年11月掲載